掃き溜めは鶴

つまらないものの中にこそ、飛びぬけてすぐれた何かがあることのたとえ。

ひとのふり見て我がふりなおせ

ブログを更新しようと思ったら、

あんまりにもブログタイトルが恥ずかしかったんで変えた。

 

掃き溜めは鶴。

 

しょうもない愚痴をだらだら書くことが、精神衛生上良さそうだし、

そういう愚痴の中にこそ、自分を見つめ直すポイントがあるような気もするから、

掃き溜めは、鶴です。

 

 

さて、本題。

 

こないだすごく心を乱されたことがあり、

それについての個人的決着をつけるために書きます。

 

というより、かなり傷ついた。

自分が得意になってやっていたことが、ものすごく人を傷つけていたことに。

 

最近の自分

 

最近、世間の常識みたいなものをガンガン疑って、

そういうものにしがみついているのに無批判な奴らを攻撃することにハマっていた。

 

なんでそんなダサいことをしていたのかというと、

当たり前に信じられている世間の常識っていう格闘競技のルール上で、

自分が明らかに弱者だったから。

明らかに強者がいて、そいつらに見下されてる気がしたから。

 

それが悔しいのと、ムカつくのとで、イライラした僕がとったのは、

お得意の小難しい本から引っ張り出してきた哲学と心理学の一部を使って、

その常識を打ち破ろうという試みだった。

 

概ね成功した、と思っていた。

 

 

しかし、こないだそういう僕の新しい常識作りの行動に対して、

はじめて強く攻撃を受けて、それではじめて過ちに気づいた。

 

 

俺は別の格闘技のルールを引っ張り出して、

強者を弱者に、自分を強者に仕立て上げているだけだった、と。

 

 

痛覚によってしか、人間は傷を知ることはできない

 

その攻撃が恥ずかしいくらい自分への敵意がむき出しで痛くて、

怖いとともに、恥ずかしくなり、とても辛くて、そして気付けた。

 

こいつのこと、きちんと傷つけていたのだ。

 

そして、目の前で必死に自分の勝てる格闘技ルールを貫こうとする姿を見て、

 

だっせえ・・・

 

と心底思った。ついでに、うわあ、こいつ痛えなと。

そいつに対してまず思って見下し、後から自分の行動を恥じた。

 

俺、ダサい。

 

他人が幸せになろうが、幸せを装おうが、見下されようが、どうでもいい

ということにようやく気づいたのです。

 

マジで他人どうでもいいわ。

自分がどうなりたいかに、他人と戦う格闘技のルールはいらないのだ。