掃き溜めは鶴

つまらないものの中にこそ、飛びぬけてすぐれた何かがあることのたとえ。

鎮魂の街、広島

 

 「鎮魂」という言葉を、強く考えさせられた平和学習だった。


 広島という街に来て、私は明確に「死」を意識して歩いていた。この街の下には、一瞬にして名前もわからない弁当箱一つ分の骨とならざるをえなかった人たちが眠っている。原爆ドーム平和記念公園、被爆体験やその伝承者たちは、彼らの悲劇を共有しえない私たちに絶えず「死」を思い起こさせてくれた。


 歴史の認識は、画一的でありようがないし、あるべきではない。ガイドの話にあった考えの譲らない外国人をして、彼ら自身や連合国の教育を断罪したりすることは本質ではない。

 

 本当に重要なことは、「遠くない昔、ここで何が起こったのか」。その事実を、今ここに存在している私たちと地続きの過去として捉え、共有し、死者の鎮魂を祈ることにあると私は思う。そうすることでしか、私たちが享受している目の前の光景が当たり前に存在するのではなく、あらゆる過去の上に立っているにすぎないという至極当然の事実に気付けないほど、伝承者の方が言うように「人間は忘れる生き物だから」だ。


 広島市内を流れる美しい川を見て、71年前の夏にここに殺到し死んでいった人々を想像すること。腰を下ろし、静かに彼らの魂が鎮まることを祈ること。これは世界の誰もが共有できる、普遍的なことだと思う。世界から核兵器をなくしていけるのは、この普遍的な鎮魂の営みにちがいないのだ。

 

 

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